山田桂月堂 羽二重旦那の自己紹介8

東北道

自己紹介も8話目となり、長いと思われる方も多いかと思われますが、何せ羽二重旦那の自己紹介ですので、うちの羽二重餅誕生のいきさつを正式にお伝えしないと、この自己紹介シリーズは終われないのです。次回で自己紹介は完結となりますので、もう少々お付き合いくださいませ。

羽二重旦那秋田に帰る、そして・・・・

金沢での3年間を終えようとする頃、祖父や父から次は秋田市の株式会社菓子舗栄太楼に行く事を強烈に勧められます、栄太楼は若い頃の祖父も修行し、母も家に嫁ぐ際、数週間研修を受けた馴染みのあるお菓子屋さんでした。色々悩みはしましたが、栄太楼にお世話になる事を決断しました。

栄太楼では製造のみの修行となりました。当時の工場の人達は工場長はじめ根っからの叩き上げの職人達が多くいました。最初のうちは専門学校出の奴は理屈が多いというイメージがあり、色眼鏡でみられていた様に感じました。空気を悟った私は、今までの経験はゼロに考え何でも恥かしがらず聞こうと考え、それを行動に移します。やはりそれが正解でした、次第に工場長はじめとした職人達に可愛がられ、仕事も任せられる様になって行きます。

しかし、今考えると、当時の自分の経験などほぼゼロであり、それが当たり前の事だったと・・・社長をはじめ、当時の工場長達には本当にお世話になりました。

東北道

東京や金沢と違い、車で2時間位の距離なので実家にもよく帰るようになりました。工場の手伝いをしたり習ったお菓子を試作したり、とにかくお菓子作りが楽しくてしょうがない時期でした。祖父もだいぶ老いてはいましたが、その姿を見て喜んでくれていました。そんなある冬の日、休日に実家に帰ると、今日祖父が倒れて病院に運ばれたと聞きます、心配でしたがその日の朝まで仕事をしていた様なので、大丈夫だろうと信じる事にしますが・・・・・その翌日に亡くなってしまいました。

祖父の死後はそれまで以上にお菓子の研究に励みました、現在当店のどら焼きのレシピも試作に試作を重ねその当時にあみ出したものです。もっと勉強したい、東京の店にも修行に出たいとのおもいもありましたが、約束の2年間を終え、祖父もいなくなったこともあり、1999年5月実家の山田桂月堂に帰ることとなります。栄太楼の社長や当時の工場長はじめ一緒に働いた人達とは距離も近いので、今でも交流があります。同業者、職人同士の繋がりの有り難さを実感するこの頃であります。

<つづく>


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